カサ・バトリョ(カタルーニャ語/スペイン語/英語:Casa Batlló)は、スペインのカタルーニャ州バルセロナ中心部にある建築物です。アントニ・ガウディによって設計され、彼の傑作の一つとされています。元々あった建物を改築したもので、1904年にガウディが再設計を行いました(ただし、この時点では実際の建設工事は始まっていませんでした)。その後も何度か改修が加えられています。この改修プロジェクトには、ガウディの助手であるドメネク・スグラニェス・イ・グラス、ジョゼップ・カナレタ、ジョアン・ルビオも携わりました。
カサ・バトリョは、アシャンプラ地区のグラシア通り(パセジ・デ・グラシア)に位置しています。この建物は、「不協和音のブロック(Illa de la Discòrdia / Mansana de la Discòrdia)」と呼ばれる一連の建物群の一部を成しています。この名称は、バルセロナの著名なモデルニスモ建築家たちによる、際立った特徴を持ち、かつ互いに著しく異なる4つの建物が並んでいることに由来します。
ガウディが設計した他のすべての作品と同様に、カサ・バトリョを「モデルニスモ」と呼べるのは、あくまで最も広い意味においてのみです。特に 1階部分は、独特なトレーサリー(窓の装飾枠)、不規則な楕円形の窓、そしてうねるような曲線や波打つ形状を持つ彫刻的な石造りの意匠が特徴です。直線はほとんど見られず、ファサードの大部分は、割れた陶器のタイル(トレンカディス)を用いた色鮮やかなモザイクで装飾されています。
2005年、カサ・バトリョはユネスコの世界遺産「アントニ・ガウディの作品群」に追加登録されました。
カサ・バトリョ イメージ
カサ・バトリョ 歴史
現在カサ・バトリョとして知られる建物は、1877年に建設されました。ルイス・サラ・サンチェスの依頼により、バルセロナ建築大学(Escuela Técnica Superior de Arquitectura de Barcelona)でガウディの教授の一人であったエミリ・サラ・コルテスが設計を手掛けました。コルテスによるこの建物は、19世紀後半に流行した折衷主義の様式に則ったもので、特筆すべき際立った特徴のない古典的な建築物です。建物は地下、1階(地上階)、その上の 4つの階、そして裏庭で構成されていました。
この邸宅は 1903年にジョゼップ・バトリョによって購入されました。その設計ゆえに買い手がつかない物件でしたが、バトリョ一家はあえて購入を決めました。その理由は、グラシア通り(Passeig de Gràcia)という立地にありました。当時、この通りは非常に高級でファッショナブルなエリアであり、名士である一家が世間の注目を集めるのにふさわしい場所だったのです。
バルセロナを拠点とする建築家兼建築評論家のラファエル・ゴメス=モリアナは、当時の社会的背景、すなわち、社会的地位の向上を目指す都市の上流階級の有力者たちが互いに競い合っていた状況を次のように描写しています。
19世紀末までに、アイシャンプレ地区のグラシア通りは、バルセロナの最も裕福なブルジョワジーにとって、最もファッショナブルな大通りとなっていました。マイケル・オード(Michael Eaude)が 2024年の著書「アントニ・ガウディ(Antoni Gaudí)」で鋭く指摘しているように、当時の裕福な実業家たちは「アナーキスト主導の労働者階級に対抗する点では団結していましましたが、その一方で、通りで最も素晴らしい邸宅を建てることに関しては互いに張り合っていました」。激しい競争の火蓋が切られたのは 1898年のことです。チョコレート製造業者のアントニ・アマトレールが、建築家ジョゼップ・プッチ・イ・カダファルクに依頼してグラシア通り41番地の建物を改築した際、プッチはフランドル風の階段状破風(ステップ・ゲーブル)や豪華なネオ・ゴシック様式の装飾を加えました。これに触発されたのが、数軒隣に住むフランチェスカ・モレラです。彼女は 1902年、相続した建物の改築を建築家リュイス・ドメネク・イ・モンタネルに依頼し、華麗なカタルーニャ・アール・ヌーヴォー様式を取り入れました。そして、カサ・アマトレールの隣の邸宅を所有していた繊維業の実業家ジョゼップ・バトリョは、他者を凌駕しようと、1904年にガウディを起用したのです。その結果生じた様式の衝突により、この街区は「不協和音の街区(illa de la discòrdia)」という愛称で呼ばれるようになりました。