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ブハラ地図
ブハラ(ウズベク語:Buxoro、タジク語:Бухоро (Bukhoro)、ロシア語:Бухара (Bukhara)、英語:Bukhara)は、、ウズベキスタン 中南部にあるブハラ州の州都となっている都市で、ザラフシャン川下流域に古代から栄えていたオアシス都市です。人口でウズベキスタンで 7番目に大きい都市で、2020年1月1日現在、280,187人(2017年時点では人口 272,000人)が居住しています。面積 143.0平方キロメートル(55.21平方マイル)、海抜 225メートル(738フィート)、北緯 39度46分00秒 東経 64度25分23秒です。旧市街は「ブハラ歴史地区(Historic Centre of Bukhara)」として世界遺産(文化遺産)に登録(1993年)されています。
ブハラ周辺地域には少なくとも 5千年以上前から人が居住しており、ブハラ市もその半分の期間存在しています。シルクロード沿いに位置するブハラ市は、長きにわたり貿易、学問、文化、宗教の中心地として機能してきました。ブハラ・ハン国、ブハラ首長国、そして後にブハラ人民ソビエト共和国の首都として栄えました。学者イマーム・ブハーリーの生誕地でもあります。ブハラ市は「高貴なるブハラ」(ブハラ・イェ・シャリーフ)として知られています。ブハラには約 140の建築記念碑があります。ユネスコはブハラ歴史地区(数多くのモスクやマドラサがある)を世界遺産に登録しています。
古代におけるブハラ市の正確な名称は不明です。古代にはオアシス全体がブハラと呼ばれていましましたが、10世紀になってようやくブハラ市に名称が変更されたと考えられます。
一部の学者によると、この名称はサンスクリット語のヴィハーラ(仏教寺院)に由来すると考えられています。この言葉は、ウイグル族や中国の仏教徒の言葉に非常に近く、彼らも礼拝所を同じように名付けていました。現代までブハラ市に残っている仏教関連の遺物は非常に少ないですが、アラビア、ペルシャ、ヨーロッパ、中国の多くの旅行者や歴史家は、この地とトランスオクシアナ自体がかつて主に仏教徒で、ゾロアスター教徒は少数であったと述べています。実際、ブハラに関する最初のイスラム文献は、ブハラを侵略した最初のアラブ人、ウバイドゥッラー・ビン・ジアドに関するもので、彼はブハラを仏教国であり、仏教寺院を擁し、息子に代わって摂政を務める女王によって統治されていたと記しています。
他の文献によると、ブハラの名称は、ソグド語で仏教寺院の名称である「βuxārak(幸運の場所)」に由来している可能性があります。
唐代をはじめとする中国の歴代王朝において、ブハラは「Bǔhē(捕喝)」という名称で知られていましましたが、これは現代の一般的な音韻表記である「Bùhālā(布哈拉)」に置き換えられています。
19世紀から 20世紀にかけて、ブハラは英語の出版物では「Bokhara」として知られていました。これは、グレートゲーム(大交戦)中のブハラ首長国に関する著作や報告書にその例が見られます。
ムハンマド・イブン・ジャファル・ナルシャキーは著書「ブハラ史(943-44年完成)」の中で次のように述べています。
ブハラには多くの呼び名があります。その一つが「Numijkat(ヌミジカット)」です。また、「Bumiskat(ブミスカット)」とも呼ばれていました。アラビア語では 2つの呼び名があります。一つは「Madinat al Sufriya(マディーナト・アル・スフリヤ、「銅の街」という意味)」、もう一つは「Madinat Al Tujjar(マディーナト・アル・トゥジャール、「商人の街」という意味)」です。しかし、ブハラという呼び名は本来の呼び名であり、他の呼び名よりも広く知られています。ホラーサーン地方には、これほど多くの呼び名を持つ都市は他にありません。
中世以来、この都市はアラビア語とペルシア語の文献ではブハラ(Bukhārā / بخارا)として知られていました。現代のウズベク語の綴りはブクソロ(Buxoro)です。
この都市の名は、1483年にマッテオ・マリア・ボイアルドによって出版されたイタリアの叙事詩「オルランド・インナモラート」の中で、「アルブラッカ(Albracca)」として神話化されました。
ブハラ イメージ(ブハラ城塞の城壁)
ブハラの観光名所としては、ラビハウズ池(ナディール・ディヴァンベギ・メドレセ、クカリダシュ・メドレセ、ナディール・ディヴァンベギ・ハナカ(巡礼宿))、マゴキ・アッタリ・モスク、タキ(丸屋根のバザール) / Tagi:大通りの交差点に造られた、ウルグベク・メドレセ、アブドゥールアジス・ハーン・メドレセ、カラーン・ミナレット、カラーン・モスク、ミル・アラブ・メドレセ、アルク城(地域博物館)、バラハウズ・モスク、チャシュマ・アイユブ(ヨブの泉)、イスマイール・サーマーニ廟、チャル・ミナレ(4本のミナレット)、スィトライ・マヒ・ホサ宮殿、チャルバクル(死者の町)、バハウッディン廟、ブハラ城(Bukhara Fortress)などがあります。
ブハラのホテルとしては、コミル ブティック ホテル、グランド エミール レジデンス、ホテル マリカ ブハラ、ホテル アジア ブハラ、リャビ ハウス ホテル、グランド ブハラ ホテル、ブティック ホテル ミンジファ、オリエント スター ヴァラフシャ、ホテル ファーティマ、ロイヤル ブハラ ホテル、アムレット ホテル、アユブ ブティック ホテル、リゾ ブティック、ホテル ヴォリダ、シャヒード ザラフシャン ホテル、ヴィラ オアシス ホテル ブハラ、ホテル ライホン、ウスマン ヘリテージ ホテル、ホテル アス=サラム、ホテル シャフリストンなどがあります。
ウズベキスタンにおけるブハラの位置が判る地図
地図サイズ:500ピクセル X 370ピクセル
ブハラへの交通アクセスは、飛行機ではブハラ空港(Bukhara Airport)、鉄道ではカガン駅(タシケントから特急列車シャルク号と夜行列車が毎日運転)があります。
ロシアの首都モスクワ からブハラまで飛行機で 3時間45分(直行便、5便/週)、サンクトペテルブルク から 4時間40分(直行便、2便/週)、ノヴォシビルスク から 3時間35分(直行便、1便/週)です。
ウズベキスタンの首都タシケント からブハラまで飛行機で 1時間10分(直行便、4便/週)、タシケントからサマルカンドとナボイを経由して車や長距離バスで 8時間5分(南西へ道なりで 580km)です。サマルカンド からブハラまで車で 4時間20分(西へ道なりで 280km)です。ブハラからウルゲンチ まで飛行機で 55分(直行便)、ウルゲンチまで車で 6時間(北西へ道なりで 425km)、ザラフシャンまで車で 3時間45分(北北西へ道なりで 275km)です。
ブハラ地図(Map of Bukhara, Bukhara Province, Uzbekistan)
ブハラの交通機関と観光名所
ブハラの交通機関
ブハラ国際空港 / Bukhara International Airport:ブハラ市街中心部から東へ5キロメートル、地図外右
カガン駅 / Kogon Railway station:ブハラ市街中心部から南東へ13キロメートル、地図外右下
ブハラ・バスターミナル / Bukhara Bus terminal:サマルカンドからの公営バスが発着、ブハラ市街中心部から北へ2km
カラヴァン・バザール南側のバス乗り場:タシケントやウルゲンチなどからの民営バスが途中停車、ブハラ・バスターミナルから北へ1km
シャルク・バスターミナル / Bukhara Bus terminal:シャフリサブス からのバスが発着、ブハラ市街中心部の東
ブハラの観光名所
ラビハウズ池 / Lab-i Hauz:1620年にアブドゥールアジス・ハーンの大臣ナディール・ディヴァンベギによって造られた池
ナディール・ディヴァンベギ・メドレセ / Nadir Divan-Beghi Madrasah:1622年にナディール・ディヴァンベギによって建てられたイスラム教の神学校、正面入口上部には偶像崇拝を否定するイスラム教では珍しく鳳凰のモザイク画があります。ラビハウズ池の東側
クカリダシュ・メドレセ / Kukeldash Madrasah:1568年に建てられた160のフジュラ(学生宿舎)があるメドレセ、ラビハウズ池の北側
ナディール・ディヴァンベギ・ハナカ / Nadir Divan-Beghi Khanaka:1619年に建てられたハナカ(巡礼宿)、ラビハウズ池の西側
マゴキ・アッタリ・モスク / Magoki Attori Mosque:砂に埋もれていたのを1936年にロシアの考古学者シシュキンによって発掘されたモスク、アラブ支配以前には仏教寺院・ゾロアスター教寺院・バザールがこの場所にあり、アラブ支配時代にムスリム商人の礼拝用にモスクが9世紀頃に創建されました。
タキ / Tagi:大通りの交差点に造られた丸屋根のバザール
タキ・ザルガラン / Trade dome Tagi Zargaron:16世紀建築、宝石商市場
タキ・テルパクフルシャン:帽子市場
タキ・サラファン:両替屋
ウルグベク・メドレセ / Ulugh Beg Madrasah:現存する中央アジア最古のイスラム教の神学校、1418年に創設され1585年に修復
アブドゥールアジス・ハーン・メドレセ / Abdulaziz-khan Madrasah:1657年にアストラハーン朝のアブドゥールアジス・ハーンによって建てられた神学校
カラーン・ミナレット / Kalyan minaret:1127年にカラハーン朝のアルスラン・ハーンによって建てられた高さ46メートルの塔で、ブハラでも最も高く、ブハラのランドマーク的な建造物です。
カラーン・モスク / Kalân Mosque (Masjid-i Kalân):シャイバニ朝時代の1514年に建てられたモスク、回廊は208本の柱で天井を支え288の丸屋根で覆われています。モスクの南東角はカラーン・ミナレットと繋がっています。
ミル・アラブ・メドレセ / Mir-i Arab Madrassah:1538年にウバイドゥッラー・ハーン(Ubaidollah Khan)によって建てられた神学校、ソ連時代にも開校を認められていた数少ない神学校の一つです。カラーン・モスクの東側にあります。
アルク城 / The Ark (fortress):2000年以上昔の古代ブハラの発祥の地とされる場所にある城、最初に城が築かれた年代は不明で7世紀に女王フッタ・ハウトンがここにあった城に立て篭もりアラブと戦いました。その後、モンゴル軍侵略時にもこの城で戦いがあり、度重なる落城と再建を経て、現在のアルク城は18世紀に築かれ、歴代ブハラ・ハーンの居城となっていました。
地域博物館 / Regional Studies Museum In The Ark Fortress
バラハウズ・モスク / Bolahovuz Masjidi:1712年にアルク城の西側に建てられたブハラ・ハーン専用のモスク
チャシュマ・アイユブ(ヨブの泉) / Chashmai Ayub (Chashma-Ayub mausoleum):12世紀に泉ができ、14世紀に中央のドームが造られ、16世紀に前のドームが増築されました。チャシュマ・アイユブの正面にはイマーム・アリ・ブハリ記念館があります。イマーム・アリ・ブハリは9世紀の神学者でムハンマドの言行録「ハディーズ」を編纂した人物です。
イスマイール・サーマーニ廟 / Ismail Samani mausoleum:イスラーム初期の建築様式の霊廟、892年から943年にかけて造られた中央アジアに現存する最古のイスラーム建築物です。9世紀の終わりごろにブハラを占領し都としたサーマーン朝のイスマイール・サーマーニが父のために作った霊廟で、イスマイール・サーマーニ自身やその孫も葬られサーマーン朝の王族の霊廟となりました。
チャル・ミナレ(4本のミナレット) / Chor-minor:1807年にトルクメニスタン人の大富豪によってメドレセの門番小屋として造られた建物
ブハラ周辺の観光名所
スィトライ・マヒ・ホサ宮殿 / Sitorai Moxi Xossa (Sitora-i-Mohi-Khossa Palace):「スィトライ・マヒ・ホサ宮殿」とは「月と星の宮殿」という意味で、ブハラ・ハーンの夏の宮殿となっていました。1911年に完成したこの宮殿は、外観が西洋風、内装が東洋風になっています。ブハラ市街から北へ約4km
チャルバクル(死者の町):大墓地、預言者ムハンマド一族で初代カリフのサイード・アブ・バクルとその3人の兄弟が葬られたされる伝承があり、地元有力者が競ってここに墓を建て、16世紀なるとアブドゥーラ・ハーンがモスクとメドレセおよび巡礼宿を建て、以後ハーン一族もこの墓地に葬られるようになりました。ブハラから西へ約8kmのスミタン村、地図外左
バハウッディン / Bahouddin:中央アジアではメッカに次ぐ巡礼地となっているバハウッディン廟があります。バハウッディン・ナクシュバンド(Baha-ud-Din Naqshband Bukhari、1318年生 – 1389年没)は、中央アジアで最も影響力があるイスラーム神秘主義ナクシュバンディ教団の開祖です。ブハラから東へ約12kmのカスリ・アリフオン村
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